噴火活動と信仰
阿蘇火山の中岳火口は、古くから「神霊池・霊池・阿蘇大明神の神池」など時代とともに様々な、いわゆる神格化した呼称で呼ばれてきた。 このように中岳火口を古くから池と呼んでいることは、火口内に水あるいは湯が溜まっている状態が長く続いていたことを物語る。その池には神が宿っていると思われていたので、神にちなんだ名が与えられ、火口へ登山することを御池参りと云って、信仰の対象となっていた。
火山活動で火山灰が多量に噴出される活動では、黒煙を蛇か龍にたとえ、それが池(火口)より天に昇り立つととらえていた。これは、自然に対する畏敬の念をいだいていたので、火口を信仰の対象とし、その結果、火山による災害を防ぐ役割をも担っていた。すなわち、古い昔の時代では、阿蘇火山は神の宿る山なので火山活動が活発するなどの異変が生じると、天下の凶兆とみなされ、飢饉疫病が生じると信じられていた。したがって、時の為政者は何らかの対策を打たねばならなかった。このため、阿蘇火山の火山活動は阿蘇神社から太宰府に古くから言上されてきた。言上された結果、阿蘇火山の神、すなわち健磐龍命に加増や栄進が与えられ、阿蘇神社の修理や新たな神社の建立などが行われた。
このような火山信仰の中心に位置するジオサイトが「阿蘇神社」(図1)である。阿蘇神社の創立は,約2,300年前にさかのぼり、現在でも阿蘇家91代の歴史が続いている。上に述べたように、火口には池があり、世の中に良くないことがあれば、突然大きく波立ち暴れる。このような異変が生じるので、宮司は阿蘇神社の御幣を奉って祈願してきた(図2)。
中岳火口の西で草千里ヶ浜との間には広大な牧野が広がっており、ここを古坊中(図3)と呼んでいる。また、山上広場と中岳火口を結ぶロープウェーの下の駅舎付近を本堂と呼んでいる。さらに、駅舎の横にはジオサイトとして、西巌殿寺奥の院と阿蘇山上神社の建物(図4)がある。西巌殿寺は、現在は麓の阿蘇市黒川坊中にあるが、古坊中には8世紀または12世紀に観音像を安置する本堂が火口の西に造られていた。寺の創建に伴って付近一帯に坊舎・庵などが建てられ、室町時代の最盛期には36坊52庵に上ったとされる。しかし、激しい火山活動や戦乱などに影響され、16世紀終わりに撤退を余儀なくされた。
噴火史に現れる被害をみると、14世紀中頃や15世紀後半に「堂舎悉く破壊」、「堂舎多数破壊」、「堂舎被害」、「本堂破壊」、「堂舎流漂」などの記事が多く、当時はかなり火山活動が活発であったことが分かる。