草原と人々のくらし
本地域では、外輪山およびその外側の斜面、中央火口丘群の斜面に、広大な草原が広がっており、国内外に誇れるすばらしい景観が特徴である。
阿蘇カルデラの外輪山の草原は、阿蘇火砕流台地と火山灰がつくった地形からなり、ススキとネザサの群集で特徴付けられている。同じような景観は、中央火口丘の斜面にも見られ、阿蘇火山の雄大な様を印象付けている。これらの草原には“阿蘇のあか牛”が多数放牧され、あか牛が草を食む姿は阿蘇の自然と良く調和しているが、最近では黒牛も増えている(図1)。
草原が原野として今も残っているのは、度重なる噴火、降灰などにより、森林化が妨げられたことが一因であるが、放牧、採草、野焼きなど、人が手をかけて維持してきた結果が大きい。つまり、この草原は自然と人間との共生で千年以上維持されてきた二次草原であり、歴史的産物である。
この中で、噴火も大きな役割を担っているが、野焼き(図2)の恩恵は大きい。野焼きが行われ続けてきた理由は、枯れ草の除去、低木の生長を抑え、森林化を防ぎ、牛馬の餌(ネザサ・ススキなど稲科の植物)の生長を促進し、さらには枯れ草が流れて谷を埋め、川をせき止め、崩壊を招くのを防ぎ、また火災を防ぐためでもあった。その結果、草原が維持し続けられ、動植物の生育に力を与え、水資源が確保され、土地保全につながり、牧畜業の繁栄をもたらし、地域への経済効果を産み、また草原景観が観光に役立ってきた。
草原の千年の歴史は、『日本書紀』に“野が広く遠く広がっていた”という記述があることからも確かで、その頃にはすでに広大な草原があったことがわかる。『延喜式』にも“二重の峠付近に牧場あり”との記述があることから、阿蘇での牧畜は、平安時代から続いていると云われている。
下野の巻狩りの舞台は、東は草千里ヶ浜、西は戸下・栃木、南は地獄・垂玉、北は赤水駅付近までの区域である。参加人数は3,500名、獲物は百数十頭に及んだ。絵図(図3)を見ると獲物は鹿、猪、兎、熊、狼などで、鐘太鼓を打ちならし、馬、犬をはじめ多くの勢子(せこ)が獲物を追いつめ、弓矢や薙刀、刀、棒で、あるいは火を放ち狩りをしている。もともとこの巻狩りは、農耕のために鳥獣の害をのぞき、同時に尚武の気風を高める目的があったと云われている。